北川浩二詩集『涙』について

            <p style="padding-left: 60px;">思っていたよりずっと長く

握手をしたり 手が肩にそっとおかれることがないと どうなるのか考えたい

「行為」より

 

僕は北川さんの文尾に注目したい。「どうなるのか考えたい」となっている。「どうなるか考えてごらん」でも「どうなるか考えた」でもない。「どうなるのか考えたい」となっている。余韻が残り、これまで表現されたことの無い種類の寂しさだと感じる。 読者に提示するのではなく、読者に解釈をゆだねるのでもなく、自分がこれから考えるのだという意思表示をしている。僕には知ることが出来ない北川さん独自の寂しさを、これから一人で見つけるのだろう。それはとても魅力的な寂しさなのだろう。それはどんな寂しさなのだろう。余韻が残る。 他にもある。

 

このまあ行けば未来があって 夢があって やっぱり苦しみもあるのよ という言葉でも 実際にこの通りに聞いた ということはない が いわれていたとしてもおかしくはない

「未来」より

 

実際に在るのでは無いが、あったとしてもおかしくないもの。僕はそれをどう受け取っていいか分からない。簡単に提出してしまうのではなく、かといって読者に考えさせるのでもない。考えるのは北川さん自身であり、その結論はまだ出ていない。だから僕はその謎をどうする事も出来ず、謎のままにずっと持ち続けるしかない。 これは北川さんの罠なのだ。彼は「考えたい」と言っておきながら、ちっとも考える気などないのだ。僕らを「在るもの」と「無いもの」の間の「実際には無いがあったとしてもおかしくない」という不気味な空間に閉じ込めておくためのトリックなのだ。 あともう一つ。

 

どうせ一度きりの花に 水をやって何になる 花は心 水はひとのやさしさ だから余計にそう思ってしまう

<中略>

ぼくは ただ 水のない砂漠に咲いてしまった うつくしい花について 涙ぐむだけで終わってしまいたい

「花について」より

 

彼は「水をあげる」のではない。「水をあげない」のでもない、「水をあげるな」でも「水をあげなさい」でもない。彼は涙ぐんでいるだけだ。一人きりで。罠をしかけるために。 という言い方は皮肉すぎる。彼は悪意のない良い人だ。彼は本当に考えようとしているのだ。その思考がある心の深いところの言葉を、そのまま書き写してるのだ。それは思考の上層部で整理された白黒はっきりした言葉ではない。これから新しいものが生まれようとしている。僕らはその現場に立ち会っているのだ。と思いたい。

 

『涙』ミッドナイトプレス,2001年。