『狸の匣』マーサ・ナカムラ(著)を読んで、物語に終わり方について考える。

            <p style="padding-left: 60px;"> どんどん足音をたてて二人に近づき、正面から、父の舌を無理矢理に引きずり出した。そうして、幅一メートルほどの父の舌を、自分の体にぐるぐると巻きつけた。<!--more-->

「お父さんがなめたから、こんなにびしょびしょになっちゃった」 父を背に仁王立ちして、母をにらみつけた。涙をこらえるだけで、精一杯だった。 『狸の匣』「おふとん」マーサ・ナカムラ(著)p.81

 『世界妖怪・怪物データベース』といったものがあるとしたら、この幅一メートルの舌を持つ父は、まだ掲載されていない、新種だと思う。掲載するとしたら、「舌広男」といった名前はどうだろうか?

 僕は、妖怪や怪物を自分で考え出したことが無いと思う。恐がりだからかもしれない。ばちが当たったり、夜中に出て来たりしそうだという恐怖心が、おじさんになった今でも多少残っていると思う。ホラー映画とかは絶対に見ないし、ゲゲゲの鬼太郎や日本昔話のハードなやつも苦手だ。

 でも、西洋の、シュルレアリスムやヒエロニムス・ボスやブリューゲルの絵に出てくるような怪物を見るのは好きだ。それらは、知的グロテスク趣味といったジャンル分けがあるように思う。

 ところで、舌広男は、最後に「壊れてしま」って物語が終わる。  マーサ・ナカムラさんのような、次々とアドリブ的な発想が連鎖していく詩の場合、終わり方が大事になってくるように思う。無理に「論理的整合性」をつけて終わろうとすると、とってつけたようになってしまいがちだ。「美的な調和感覚」にすると、支離滅裂で何が言いたいのか分らない、ということになってしまいがちだ。

「論理的整合性」「美的な調和感覚」というのは、河合隼雄さんという心理学者の人が、日本と西洋の物語の違いについて分析したときの用語。 「論理的整合性」の場合は、善と悪、成功と失敗、生と死、結婚と破局、幸福と不幸などの対局から、どちらか一方を選び、もう一方を完全否定して終わる。  「美的な調和感覚」の方は、どちらかに結論付けず、あいまいなまま、余韻を残して終わる。    「論理的整合性」は、次のような例があげられると思う。 ・男女の物語で、結婚して終わる。 ・冒険の物語で、目的地にたどり着いて終わる。あるいは、敵を倒して終わる。 ・立身出世の物語で、偉大な事業を成し遂げて終わる。 ・波乱万丈な人の物語で、死んで終わる。

 「美的な調和感覚」の方は、次のような例があげられると思う。 ・どこかに去って行って終わる。(死なない。) ・いつの間にか消えていた。再び行くと無くなっていた。 ・少し元気になって終わる。 ・「さて、これからどうしようか…」と言って終わる。 ・「いとおかし」と言って終わる。 ・フェードアウトする。 ・昔を懐かしみながら終わる。

 引用させてもらった詩では、「父が壊れてしまっ」て、「愛子の心は下へ下へ沈んで、次第に見えなくなって」終わる。  死んではいないが、もうほとんど死にそうになっている。  「論理的整合性」とも言えるが、かろうじて「美的な調和感覚」なのかもしれない。   うまい終わり方だと思う。